雑記帳 221016

楽曲提供依頼が来たけど、断念

雑記
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かれこれ何年も楽曲提供を行なってきたDJMaxへの楽曲提供依頼が来まして、いや、実は2年ほど前に送ったデモへのレスが今来たのでして。
モチーフ的に面白い部分もあったけど、デモとはいえ完成図が思い描けてなかったし、制作意欲も減退してたし、多忙もあって、断念&取り下げをお願いしました。正直言うと、1年以上前に友人に頼まれた曲も5,6回作り直してまるで出来る気配がありません。
代わりに、何年もの間、そのゲームで歌いたいって言ってる友人がいるから紹介しますか?と返信に記したんですが、特に反応もなかったので、じゃあこれにて、と。

ちなみに、返事がないから無礼とか、紹介に言及しないのは無礼とか、ってのではない。一時的にはムムッとなるけど、その程度の話は海外でも国内でもよくあるし、こんなんで憤ってたら世の中気に食わないものしかなくなっちゃう。
侮られた(例えばロハでやらされるとか、提供したものを台無しにされるとか、承知もしてない濡れ衣着せられたとか)場合はさすがに何年も引きずりますが。

長調の曲を作る

長調の曲は作りづらいと言われることが多く、実際自分もそうでした。短調だと勢いで作れるのに長調だとえらく消耗して、かつチャチさが出てしまう。そこで自分が試したのはこんなの。

  1. Maj7とadd9thをはじめ多重和音系を控えた。これらを使ったほうが長調を作りやすくなるけど、むやみに壮大になりやすい。
  2. ギターで演奏する想定で作るようにした。自分の弾く楽器ではないため、難しいことはできなくなり、シンプルになる(ギターが簡単な楽器という意味ではない)。
  3. リフやキメを強めに配置するようにした。不安に駆られて白玉を入れる行為がチャチさを生みやすいかもしれない。
  4. ダイアトニックから外れるコードを随所に入れて脱線させた。結果、フレーズの選択肢がいい具合に狭まった。
  5. よくある手法だが、展開中に平行調(短調)の箇所を作る。不安感は薄らぐ。
  6. 生歌、生楽器をメロディーにするようにした。長調でのシンセのメロディはチャチくなりやすい。

あくまで自分の場合。ふだんから景気よく長調の曲を作れてる人には無意味。
いったん多重和音に馴染んじゃったせいで薄い和音が怖い、ってのが自分は大きかった。

文章技術云々、なぜ気にかかってるのか

文章技術の話題の一環で、慣用句の間違いだの、漢字を開くだの、接続詞の誤用だの、断定で述べるべしだの、そうした話題に自分がつど気を引かれるのは、何かしらマウント材料を探してるんだろうかと戒めてたけど、先日「あ、これ大きそう」と感じたものがありました。
クライアントからの指示フレーズ中で、同一の用語が別々のものを指し示してて、「この人は何を言おうとしてるんだろう」と同僚と首を傾げること小一時間。

つまり、基本的な文章能力がないと意図が伝わらない。

特に仕事だと、本来必要のない作業が発生したり、逆に取りこぼしが起きると、なかなかの惨事になります。スケジュールと物量(だけじゃないけど)は、制作において費用に直結する大きな要素なんで、そこが雑だと正直話にならない。
むろん現場に居合わせたり近場にいれば「それどゆこと?」と問い質せるし、あるいは「電話」での確認も可能というもの。そこでメッセージでやり取りするなら、誤解のない文章で伝える必要がありますよね。ログを残す目的でのメッセージなのだからなおさら。この辺り本件の事情はもう少しユニークなのですがボカすためここまでとします
ご年配をはじめとした方々がメールのログ能力を差し置いても電話やWebミーティングツールでの指示を優先させる理由の一端は「受け取った文章が何言ってるかわからん」ことにあるかも、と余談ながら思いました。

先日、いわゆる「いかがでしたか」ブログの断定的記述により、亡くなられた方の尊厳が傷つけられたとされるケースを見かけました。
真偽判断を保留できない(そのわりに声がデカイ)読者もそれなりにいると思うんで、一定以上の確度がなければ…ぶっちゃけ自分で責任取れるんじゃなきゃ、何でもかんでも断定形で述べないほうがいいかなと。自分には、説得力よりそちらのほうが大事。
もっとも、書いてもいないことを勝手に読み取って責任を問うてくる方もいるので、いっそネットに考えなんて書かないほうが無駄な時間を使わずに済むのかなという気もします。

想像力? リスペクト?

コミケで隣の隣の隣、ぐらいだった気がするクリエイターが自殺してしまったらしい。話した事もないが、隣の隣の隣、ぐらいで見た事がある人だ…

「理由がわからない」と漏れる言葉がショックの余りに辛うじて出てきたものでしょうよ、とするコメントも見られ、それもないではないのですが、それはそれとしてクリエイターが自分との戦いでどれだけ消耗して、消耗したぶんを補うのにも地味に体力/精神力を消耗するよ、それが間に合わなくなったときの焦りと自身への落胆は、期待されていると考える自負の重さに比例するよって説明には、個人的にもすごく賛同します。責任感のある人が鬱になる、っていうでしょう。概ねアレです。

耐え切れなくなってアレなものを服用する人もいれば、自分でない人に作ってもらって名札だけ付け替える人もいて、気持ちはわかります。自分はそういうルートに行かなかったから、幸せといえば幸せでした。
でも、冒頭に記したような依頼をお断りしたときにはこんな自分でも忸怩たる思いがしましたし、そしてコロナ禍に入って制作を急がなくて済むようになったときに足枷が外れた気がしました。
自分でこの道を選んだ、あるいはこの趣味に没頭することを選んだ、助けを求めたらそれは恥だ、ズルはしない、この局面を締め切りまでに切り抜けられないなら自分はそれまでの才能なのだ、そうした真面目さが自分を追い込むことはあります。少なくとも自分はそうして自分を追い込んできました。足枷が外れてふと、よかった、自分は音楽が好きではなかったんだとすら思いました。
切り抜けられることは不真面目なのでなく(そういう人もいるとは思うが)、強い、図太い、あるいは何らかの形で自身を制御できてるんだろうと思います。

で、これが想像できない人はやっぱりいると思います。
小さい子か、その分野を知らない人や、それこそ強く図太くて切り抜けられる人には想像しにくいでしょうし、それ以前に人によってはこれっぽっちも辛抱できない人もいれば、どんだけ耐え忍ぶんだって人もいます。それを比較してどうこう言うのは流石に傲慢かなと考えています。


余談ですが。
昔ね、もう結構前ですが、締切を取るか完成度を取るかって友人と話をしたことがあって、当時は完成度を取ったけど今は締め切りを取ります。
今も実は完成度って概念が自分にはなくて、せいぜい納得行くかどうか、自分の名前を併記して恥ずかしくないかどうか(だから自分の与り知らぬところでプロフィールを盛られるのが嫌い)。で、昔はまあまあの出来でOK出せてたものでも、今は自分自身でOKも出せないし、その状態のものを人前に出すのもイヤだったりします。

とはいえ、自分が納得できて良しとするものがクライアントにとってnot enoughであることもtoo muchであることもよくある話で、結局、つどすり合わせて双方にとって許容範囲内に入るものに整えていくのがベストなんでしょう。思いもよらぬ妙案を掲げて驚かせるのも一興ではあるのだけど、それも同意なくば独り善がりなわけで。何にせよコミュニケーションはケチっちゃマズい。ゆえに時間は必ず消費します。制作以外で、も。
一人の人間として知識を蓄えたり経験を踏むと姿勢は変わるものであって、むやみにスタンスの一貫性を求めるのは好ましいことじゃない。一人の人間があらゆる面で頑固ってこともないし、あらゆる面で何しても怒らないとは限らない。一人の人間をとっても多様性を包含するもんだと自分は思ってます。対他(一人であれ大勢であれ)で効率を求めると多様性を無視したほうがそりゃ物事は簡単になりますが、実際そうはいかんのですよね。