雑記帳 190303

The Happiest Man

image credit:youtube/El Juicio de Joe Arridy  1915年4月29日、ジョー・アレディはアメリカ・コロラド州プエブロで生まれた。知的障碍を患っていたため、人生の大半を知的障碍者施設で過ごした。  彼の知能指数は46で、そのふるまいはまるで子供のようだった

何とも理不尽。
ブコメじゃ文字数足りなかったんで、もう少しだけ補ってここに書き残しておきます(正直、あの言葉足らずでスター付くのは疑問)。

こういうHappyの使い方ってちょっと不思議に映ると思います。
ことがことだけにぴったりな類例探すの厳しいですけど、Happy to Dieを「死ぬことが幸せ」じゃなく「幸せなまま死に至る」と読むケースを引き合いに出すと少し理解が容易になる…かなあ。

不道徳的な快楽であれ何であれ、端的にその人が「幸せ」に耽ってる状態をHappyと表することありますよね。
なんなら知的障害も関係なくて、たとえば捕虜を薬漬けにして幸せな気分を味わわせたまま処刑した場合でも捕虜のことをHappyと表せるんですよ。
道徳は別として、対象がどうだったか。

類例あるかなとしばらく考えて、ことがことだけになかなかない。
攻殻機動隊の笑い男に「笑いごとか」とツッコむようなもんか…違うな。安楽死に「安楽なわけあるか」とツッコむようなもんか…これもニアミスか。
Happy Prince(幸福な王子)どうかなと考えて、原作知らないけど天に迎えられて「よかったね!」まで描かれちゃってて紛らわしい。
幸せな幻想を見てる間に召されてしまうマッチ売りの少女が近いかな。
下記は論拠じゃなく、どういうふうに語られてたかのあくまで引用。

寒い寒いあくる朝のこと、その街角の隅っこに、小さな少女が口元に微笑みを浮かべて、うずくまって死んでいたのです。しかし、少女は高く高く天へと昇って行き、あの星になったのです。

クリスマス・イヴ・大晦日の夜(X’mas Eve・New Year’s Eve) 筆者:堰免 善夫 | 進路ナビニュース|進路ナビ(リンク消失:https://shinronavi.com/news/detail/235)

↑注:もと、https://longago-hanashi.com/182.html から訳文を拝借していましたが、サイトが消失したようなので改めて別所から拝借。

“She wanted to warm herself,” the people said. No one imagined what beautiful things she had seen, and how happily she had gone with her old grandmother into the bright New Year.

(意訳)(大量のマッチの燃えかすを見て)暖まろうとしてたんだろうと人々は言いました。(その憶測とは裏腹に)彼女が(マッチの火を通して)見たなんとも素敵なもののこと、彼女が亡き祖母に連れられて輝かしい新年に向けてなんとも幸せに旅立っていったことを、誰も知り果せることはなかったのです。

Hans Christian Andersen : The Little Match Girl

通例としてはやっぱり恵まれていること、嬉しいことに対してであって、マッチ売りの少女もだけど当人の感覚とミザリーな状況とにギャップがある非日常をHappyと表するのは相当センセーショナルな使い方であると思います。
お蔭でこの理不尽が浮き彫りに。
このエピソードでいったい何がHappyなのかと、ある種の叙述トリックを知って「幸せなわけあるか!」と後世の人が憤り、理不尽があってはならないと戒めるとこまでがワンセットであると僕は考えます。
憤りを覚えるのもごもっともだけど憤りの矛先は理不尽に向かうべきで、語法や、いかにこのHappyに対する適訳が難しいとしても記事を取り上げた人に向かわせるべきではないなと。

とはいっても、このHappyの言い回しに抵抗あるのはわかりますし、母国語でもこの修辞を嫌う人は多そうな気がしますんで、いずれ英語圏でもこういう修辞は無くなっていくんじゃないかなと思います。

Cultural Appropriation

日本人が知らないアリアナ・グランデ「文化の盗用」批判の背景とは | 文春オンライン
日本人が知らないアリアナ・グランデ「文化の盗用」批判の背景とは | 文春オンライン

英語的な話題続いちゃうんですけど、なるべく手短に。
正直、文化の盗用(Cultural Appropriation)がいまだにピンと来てません。

文化の盗用(cultural appropriation)の意味は?

パリス・ヒルトンが着ていたネイティヴ・アメリカンのハロウィンコスチューム、セレーナ・ゴメスがつけていたインドのビンディ、ケイティ・ペリーの着物風ステージ衣装。どれも「ある問題」として話題となっていたことをご存知だろうか?これがなぜ問題であるのかわからないあなた。実はあなたも、知らないうちに加害者になっているかもしれない。 「文化を盗む」という問題 「文化を盗む」とはなんだろう? 実は全米の人気アイドル、セレーナ・ゴメスはこの問題で「有罪」となっている。事の発端は、彼女が自身のコンサートで額につけ...
「文化の盗用って何?」、「他の国の文化を理解しようと、悪気なく着た服だったのに、なぜ非難されるの?」、「何がだめなの?」。「文化の盗用」という議論がノルウェーで始まっている

言われてやっと気づくってのはなるべくナシにしたいのだけど、職業柄、今の感覚のままだと危ないなと思ってて(後述)。
盗用されてると日本人が感じるケースが少ないのも一因らしく、しいていえばたまにTVでやってる、海外の方が寿司屋で寿司とも思えないものを提供するケースが近いんかな。ムムッとは思うもの。

音楽やってると借り物を使うことはホントに多くて、やれアフリカのリズム入れてみようとか和楽器を盛り込んでみようとか、ジャズっぽさ出すのにウッドベース入れようとか。
個人的には、なるべくフザケた局面で使わないORフザケて聞こえないようにしてるのだけど、それがリスペクトとして伝わるかというと疑問で、(ないと祈ってるけど)「俺らの文化を金儲けの材料に使うな」といつ言われ始めるかはわかんないですよね。
面白ければ許す通例はあるけど、普遍的な判断基準ってわけじゃないですもんね。

手抜くな VS 無茶振り

この間すこし触れた、Flatwoundの弦を張ってこそみたいな曲を、対バンありのアマチュアのブッキングライブの選曲に混ぜるかって話。
僕は演奏も作り手もどっちもやるから両方気持ちわかるんだけど、再現度重視したい、だけど曲によってベースの弦を変えるってのは相当ハードル高い。
でも書きたいのはそこじゃなくて、選曲する人(だいたいボーカルが多いか)がその選曲をして、他メンバーも再現度を重視したい気持ちはあるけど色んな事情で泣く泣く再現性を捨てた場合に、安易に「手抜き」って言っちゃうの?って話。

再現度を求めた挙げ句、かえって花形のボーカルが歌えなくなる、それじゃカッコ悪かろうと経験的に悟って再現性を捨てて安全を取ったら、当人から「手抜き」と罵られちゃいました、ならそのままやってみろとやってみたら当人は歌えてるつもりで傍から見ると危なっかしくてしょうがない、でもゴリ押しでこのままやることにしました、そしたら今度はファンの方からはボーカルを支えないメンバーは手抜きだと罵られましたって、どうせえっていうんじゃみたいな話。
乗り越えないと次はないもんね。どうやって?って、手法を知るしかないんよ。身体で覚えろって体育会メソッドでも限界ありますもん。

今どきの曲って結構ムチャなアレンジがあるんよ。自分もするし。
たとえば曲の途中でファミコンみたいな音になるとかね。再現する? いや、オケ流すんじゃなきゃムチャでしょ。
かたや手抜きと、かたや無茶振りと、罵る前に選曲の合理性を説くとか、弦の張替えひいては楽器の持ち替えのしんどさを説くとかすれば?と。
説明UZEEじゃないよ。言わなきゃ誰もわからないし、人によっては知ろうともしないもの、ね。