雑記帳 221120

Ableton Liveのデバイスっぽいプラグイン多くないっすか

OTTが許されるなら、これも許せってことですかね。ものによりますが、たしかにAbleton Liveのデバイスはよくできてると思うし、他のDAWでそれに見合うスマートなものがないのも然りではあります。

否定句の賛辞

言われてみれば字面の悪い称賛コメントがあるっちゃありますね。自分の観測範囲でよく見るのだと…

  • It’s killing me.(俺得;俺の嗜好を直撃)
  • I’m crazy about 〜(夢中だ;俺、狂喜乱舞!)
  • So Sick.(イカしてる/イカれてる)
  • Kudos.(でかした!)
  • Props!(やったね!)
  • ○○ Rocks.(さすが、○○;さす○○)
  • 100%(間違いねえ)
  • Super super 〜(超、超〜)

海外での製品紹介動画やレビュー(フランクな人の場合)、あと洋楽の歌詞を読む習慣のある人だったら結構見覚えあるかなという気がします。

だけど、上の2つ目のTogetterにも見えるHate this(アカン(褒))とDelete this(直視できない(照))はだいぶ伝わりにくいですね。スラングっつうか経緯知らんと伝わらないって意味でミーム化に近いんでしょうけど。
日本語圏でのかつての微レ存や小並感も内輪向けの暗号みたいなもんで、それをそのまま海外の人の動画にコメントしてしまったら、やってることは一緒って話でね。

「乞うご期待」

ふと気になって、「乞うご期待」の語順はどうしてこうなのか、類例はあるのかとググってみたら、結果はこう。

役に立たないとは言わないし、こういう簡易な情報を知りたい人には有り難いだろうことが想像つくけど、逐語解説、類語反意語、英語表現、という本質に触れないダイジェストページが金太郎飴状に検索結果ページを埋めるわけです。結果、知りたいことは3つ目のスクショのような英語での解説ページでやっと知れる。面倒ね。
検索語句を増やして絞り込めばいい。そうだけど、そうじゃない。”知っていること”の”知らない部分”を知りたいとき、検索では辿りにくいんですよ。だから知っていること(正しかろうが誤っていようが)の無闇な補強に終わりがちで、旨くない。”検索語句”というのはその検索語句と概念を”知っている”から検索窓に書けるわけで、そうじゃない場合はどうしましょうかね。
だとすると、”知っている部分”が少ない人は”知らない部分”にいつまでも辿り着けず。そこにある種の溝があります。そうした方々をネットだと、簡単な(ある種の)サブリミナルによっておかしな方向に容易に誘導しうるんだろうなあと思った次第。

タイパ

最近よく見る「タイパ」。
別に馴れ合う気もないのだけど、自分もタイムパフォーマンスは昔から気になってるほうで、自分はせっかちなんだろうかとか、これが要領重視ということなのだろうかと、考えては結論出ず、それにしては憑き物のように感じつつ過してます。
ただ、今にして思えば、焦って身につけたもので今も活かせてるものなど、そんなに多くない。一割もないか。要するに一過性のもの、揮発性のものだったと。必要に迫られたか必要に駆られたかわからないけど本意はそっちを向いていなかったと。

体系的に会得したものが風化しにくいのと比べると(人によるかしれないけど)付け焼き刃のものは次の日にゃ忘れてるんですよね。
というか、付け焼き刃に終わるであろうことが想像できるものにコストをかけること自体がローパフォーマンスな気がします。その時間にもっと生産的なことができそうだもの。とはいえ、それは無前提の場合の話。
“コミュニケーションのために割譲する自分の時間”を考えるならば、どうやって”自分だけの時間”が侵害されることを阻止しつつ”コミュニケーションのために割譲する自分の時間”を稼ぐ/節約するか、それを考えたらそりゃ「タイパ」って考え方に辿り着いて不思議じゃないと思います。

面白くなくなって途中で読むのをやめた本、道半ばで諦めた夢など、うちらだって後からみりゃ無駄な時間を過したなあと感ずるだろうわけです。もっとも、よく言われるように、無自覚でもそこから得られたものがあるのなら無駄ともいい難い。当人がそれを活かせるか活かせないかはおそらく別のテーマの話として。

実るかどうかわからない道を歩んで、結果実らなかったとき、どう自分の中に落とし所を見つけているのか…なんて疑問が以前某所に綴られたりしてましたね、そういえば。
実らなかった場合に身の振り場がない状況はそもそもあっちゃマズいよなあと感じてます。じゃあどうすればって、自分にゃどうしようもないのですが。

信頼できないクライアント

Togetterネタが多くなっちゃいましたね。Twitterが無くなったらこれも無くなるんでしょうか。
さて「信頼できない語り手」は特に関係ないけどネタで貼っときます。小説におけるトリックの一種。

クライアント側に計画性や一貫性がなかったりすることは(今に始まったことじゃなく)まあまあ多くて、そうすると何せ現場側のスケジュールが狂うので信頼できない。現場側にとって時間と金との合計が一定ラインを超えてはじめてクライアントを信頼できるんですよね。
某所にも書いたけど、そういうクライアントを相手にするとこちらのスケジュールがグチャグチャになっちゃうんで、なるべく後回しにしてデッドラインぎりぎりに納品して文句を言いづらくさせる、ってなりがち。そのほうが、それこそタイパがいいから。

クライアント(や上司)側は、指示能力はもちろんですが、現場側に信用されてると信じちゃわないほうがいいでしょうし、万が一スケジュールを破壊してでも自分のヒラメキのほうが価値ありとするなら、スケジュールを破壊してしまった際の保障とセットで提案するのがフェアだと思いますし、また一方で現場側も同様にクライアント(や上司)に信頼されてると思うべきじゃないでしょうし、今みたいに(形式上そうなっていなくても)多重請け万歳なご時世にあっては現場側も別の場面じゃクライアント側になってると考えておかなきゃならんでしょうね。

まだこの年なのか、もうこの年なのか

似通ったことを何度か過去にも記してきたのだけど。また何かグッタリし始めたときに備えてメモ。

年齢を自覚して、それをたとえば三十而立なら落ち着いたオジサンだ、四十不惑なら萎れたオジサンだと頭を過らすようになった瞬間に自身も老け出した感があるのです。
年齢より若ければイイとも言えなくて、実年齢より若く見られるのは喜ばしくても、いい年して幼稚すぎたらダメだなってことは日々感じます。
自分もいよいよ知命に至って知力体力とも衰え、抗うでもなくゆっくり壊れていってる実感もありつつ。
老いを全うするのがメーター100だとして仮にいまメーター30だとしたら、今は単に草臥れてるだけでホントは全然ラクな状態なのでは。同窓会に行けば周りは萎びたおじさんばかり、でもTVを見れば60でも70でもアクティブに動いてる人がいる。徹夜みたいな無理ができなくなっているのは事実だけど、メーター30程度でしょげてもね(言葉は悪いけど自身に発破かける意味で書いてます)。
不思議なもんで、そう考えると座り仕事で腰がダルいと思ってたけど意外とそうでもない、食う量も減ったと思ってたけど案外夜中に腹が減ってる、と、結局片面だけ見て憂いていたといえます。