May 27 – Jun.2 【週間まとめ】

May 27 – Jun.2 【週間まとめ】

LOGO ROUNDUP

少しずつソフトウェアおよびサンプルライブラリー関連の新着が賑わってますね。
それと同時に、体力のあるデベロッパーとそうでないデベロッパーと、あるいは完全にマイペースなとことで棲み分けみたいのがハッキリ見えてきた印象があります。

5/29

5/30

5/31

6/1

6/2

雑記

引っ越し

無事先週実家近くへの引っ越しを終えました。
わりあい体力あるほうだと思ってましたが、引っ越しと片付け後の疲労感が物凄い。子どもがいるのでなければ、50代の引っ越しは考えたほうがいいというか、もしも親の面倒を見る向きの引っ越しが頭の片隅に少しでもあるのなら40代で決着をつけたほうがいいと思います。お勤めの人はなかなか会社が許してくれないってのがネックでしょうけど。

気分一新兼ねて記事ページも明るい配色にイメチェンしました。

プライベートレッスン

dtm-online音楽教室を先々月退任したのですが、個人的なご指導を望まれる方がいらっしゃったので、レッスン体系等の記載についてタイムスタンプを残す意味でも体系を明文化した窓口ページを設置しました(ページ上部メニュー参照)。

昨今は個人情報の管理、認識違いによって引き起こされる摩擦、場合によっては高額製品の売りつけなどの問題を耳にします。
なのでお互いのためにも新規は初心者もしくは希望者に限定、また本名および連絡先の報告を必須とし、レッスン希望内容によってはお断りすることもあります。

オンラインだと出来ることは限られますが、可能な限り対応する予定です。

赤毛米

昨年か一昨年だったか日本ハムファイターズにちなんだ楽曲をQuadrifoglioの面々で作り上げて、チーム後援会の方との接点が濃くなったのですが、その流れで寒地稲作の先祖といえる赤毛米を大切に保管する北広島市とつながりができ、赤毛米にちなんだ楽曲にアレンジ面で尽力いたしました。
5/29、引っ越しの疲れも冷めやらぬタイミングでしたが、Quadrifoglio4名と後援会の方とで北広島市上野市長を表敬訪問しました。北海道新聞に、経緯など含めた記事が掲載されるとのこと。

赤毛米について | 北広島商工会
現在の北広島市島松に入植した中山久蔵は、明治4年(1871年)に「赤毛種」とよばれる寒さに強い稲を改良しながら、稲作に成功しました。商工会は、その当時の米を復活栽培し、北広島の観光資源として会員事業所の経営の安定に寄与する目的で、商品開発等、様々な取組を行っています。

折しもコメの栽培北限が話題になっていましたね。

そしてこんなのも。

表現すること、させられること

自分語りというか、求められてもいない経験談の類いだと思うのですが、詳しくは、この一つ前のRPをお読みいただけると有り難い。ライブで何を見、何を聞いてもらうのかという話。

別段これが正解と言いたいわけでもないので、説明そっちのけで端折った投稿になってるのはご愛嬌。
要はライブ時、つまり聞くだけじゃなく目でも楽しんで(ここでは刹那的快楽でなく実りがあるということ)もらえる場で、目でも楽しんでもらうためにアーティスト側が適切なことを出来てるとはたして言い切れるのかなってのと、オーディエンス側にそれを楽しめる感性(俗に言うリテラシー)が養われてるのかなってのと。
ただしそこに重きを置きすぎたエンタメはハイコンテクスト化してしまい、娯楽のありようとしてはあまり好ましくない。ゆえに程度問題に押し止めるのが穏当であってバイナリーと考えるべきではないでしょう。

それから、こういうのも時代によって変化するものだから、仮にアーティスト側の見せ場をオーディエンスが見てくれてなくても、まあ仕方ないよねとは思うのです。
じゃあアーティスト側は何も考えずに演奏してていいのかというと、何か目指す姿があるなら、そういうわけにいかない。

で、思い出したのが大学時分に見に行った友人のライブで、次ギターソロなんだろうなと思って見て楽しんでたら、隣席に座ってた後輩にライブ後に「ギターソロが始まる前に、あなたの視線は既にギタリストのほうを見てるんですね」と言われた話。
カンが鋭いのかな、それともオーソドックスが身にしみ過ぎなのかなとも思ったんですが、それを取り払っても、見せるミュージシャンって自分の見せ場を曲中で匂わせるのだよなと。
それが出来ること、それを感受できることは、取りこぼしが少なくなって、よりステージを楽しめることにつながります。

以前「人のものを借りて表現するならまずアナライズせえよ」と書いたことがありますけど、伏線云々じゃないにしても構成を把握しておくこと、それを頭に入れて人前で演奏することって意外と効果がでかい。万が一のトラブル時にも対応できますし、余裕があれば出来ることも増える。オーディエンスであれば、それを感受できたなら特別な場面を味わうことができる。
音楽を演奏する側の人と、音楽に演奏させられる側の人との違いはその辺じゃないかなと思ってます。
記したように、それは音楽と演奏者とでどちらが上か、かといって仲良しこよしかって立場の問題ではなく、その音楽をどう解読して身に取り込んでどう表出してやるかのプロセスを経ているかどうかの問題なんじゃないかなと。