日本の音楽技術産業云々

こういうふうにエグってくる話題も珍しいなと。
Attack Magazineに、日本がダンスミュージックテクノロジーの中でいかに置き去りにされて行ったのかといった記事が掲載されています。
日本特有の社会背景などにも触れ、そうそうまとめやすい内容でもない(多少なりとも恣意的なまとめ方になってしまうのもある)ので、翻訳ソフトなど介してお読みいただくとよいかなと思いますが。
音楽に関しての日本にまつわる動きといえば、ボーカロイド以降はアニソンに絡むJ-Popへの注目や、シティポップの再評価、まあそんなところかなと思うのですが、個人的には何かが終わった印象も別段なく、むしろエンターテイメントを探したり生み出したりするモチベーションは衰え知らずだなと思うくらい。
ただまあ、供給側と消費側のバランスというか、力関係がどうもうまくないなとは思いますけど。良くも悪くも群がりやすいというか。群がると少し威圧的になりやすいというか。
その側面でいうと逆に、割り切った少数派の飛び抜け方、時には垢抜け方、徹底され方には、それらに日が当たるたびに驚愕してしまいます。
シティポップの再評価やシンセポップが流行った中で少し感じたのが、YouTube等で今昔の垣根なく若年層でも音楽に触れられるようになってしまったせいか、それまで中年以上の層に特有とされてきた「ああ、それ、知ってる」感がほうぼうで目に入るようになっちゃいましたかね…。観測範囲の問題かも知れないけど。
自分の場合、その感覚がまんまと自覚され始めたとき、しきりに「俺の知ってるそれとは絶対違うよ」と言い聞かせてきたもんです(でも払拭し切れない)。
その「似てるけど経緯が違う」ものを見逃しちゃってるようだともったいないよな、とは思いますね。
元記事にふれる部分でいうと、ソフトウェア産業とは少し違った目線で蠢いているってとこが気になりますかね。ちょっと自分にはわからない。
バブル世代およびロスジェネと比べて若い世代が世界に対して臆してる気配がないというのは、これは日本に限った話でもなさそう。ぼちぼち翻訳ソフトなんかも要らなくなっていく時代でしょうし、文化摩擦的なリスクを払拭しきれないにしても何かしらイイ変化が訪れてくれたらなとは思いますね。部外者が金目当てによけいなクビ突っ込んでこないことを切に願いますが。
完成度、ドキュメントの充実度に固執しすぎて歩みが遅くなっているってのは、ちと耳の痛い話。自分なんかは、消費者としちゃ完璧なものより多少ヌケのあるもののほうが好きなのだけど、提供する側となったときには…やっぱりミスなくやろうって気持ちが強い。そういったチグハグ感はある程度自覚してますけども。
もちろんWebアプリとか何とかはセキュリティ甘いと大変なことになるので、ヌケなんかあっちゃダメでしょうけど、娯楽として消費するレベルのものならヌケあってもいいかもしんないですね。
個人的にはというか体感的にはって話になっちゃいますが、カスハラほどじゃないにしても消費者側があんまり主導権取ろうとしないほうがいいなとは思うのです。