「20分の4拍子?」雑感

Adam Neely の YouToube チャンネルで、4分の20ならぬ20分の4拍子が取り沙汰されていて、どういうこと?と。
Shubh Saran のアルバムHMAYRAに収録されたSlipの中盤で出現するメトリックモジュレーションについての話ですね。

要するに、6/4拍子1小節分を16分音符の5つ割りして余った4分音符1個分が、16分音符5個分を4分音符に換算するメトリックモジュレーションによって際どい短さに圧縮されてしまい、書き表すなら4/20拍子が出現しちゃいますよという話。

こういうことかな?
こういうことかな?

これをどう解釈して演奏したらいいのか。音価としては4/5拍でよさそうだけど。
で、彼らは演奏の中でその音価をさらに3連符として演奏していたりして、記譜するなら入れ子で書かざるを得ない、と。

なんか、色々考えて記事書いて消して繰り返すうちにまとまらなくなってきたので、ざっとだけ書きます。
まだあれこれ考えてる最中。

  1. そこまで精確な演奏を意識してはいないと思う
    • 精確さは善だけど、たとえば3連符なんかは精確でないと成立しないケース(ポリリズムなど)と、演出/ダイナミズムを優先して故意にモタらせるケースがある。善ではあっても絶対善ではないと思う(→5に関連)
    • クリック/メトロノームを伴った個人練、また同期モノのように、精確さを期さなければいけないケースもある
    • 民族音楽に造詣深い人は独特なタイム感をお持ちの場合もあり、難なくやり仰せる人もいそう
  2. 精確さ(≒記譜可能性)を求めると、極端に難度が上がるケース
    • 図示しないほうが実践しやすい
  3. 着地点への逆読みができれば、実はそこまで難しいものでもないのでは(→5に関連)
    • 逆読み自体はそう簡単でもないが、訓練で身につく
      • (経験則だが)リズム感が良くないと言われる人は音の長さの扱いが雑。逆読みできる人は音の長さへの意識が強め(機会あればいずれ記事を書くかもしれない)
    • 本例のようなややこしいフレーズは解説するとよけい難しく見えがち(→2に関連)
    • ピアノやオルガンのグリッサンドは逆読みの実例といえる。またこれらは精確さを絶対視して1音1音記譜することはまずない =精確、精確いうけど、誰かが線引き決めてるよね(→5に関連)
  4. 類例は意外とある
    • 顕著なのはドラムフィルやドラムソロ
      • ドラムフィルではフィルの終わり直前を連打で埋めて着地させる(→3に関連)ケースが多々見られる。最速の連打で埋めようという意思が働くと7連符だの13連符だのになる。それは難しいのかというと、結果論でそうなってるだけなので難易度で語るのは筋が違う
      • 複数小節にわたってまったく違うテンポで演奏するというドラムソロネタもある
        • これらも記譜すると大変なことになる
  5. 精確さに固執する派と、柔軟にやっちゃう派はある
    • かといって柔軟にできちゃう派がシビアさを無視してるわけではなく、むしろタイムをちゃんとキープできることは前提になってる
    • (原則精確主義で、柔軟に対応できると素敵)
    • 誤解を恐れずに書くと、精確さに固執すると孤独な戦いになり、柔軟だと演奏仲間やオーディエンスとのコミュニケーションに働きやすいと思う
  6. こうした小細工が入るのは小節の最後が多い;辻褄合わせ(→3、4に関連)
    • 小細工明けの拍(着地点)が明確な楔なので比較的実践しやすい
    • 逆に小節中盤に小細工が置かれることは滅多にない。民族音楽は除く
      • 仮にこの4/20が、16分5つ割りの塊の3つ目と4つ目の間に入ったらどうだ。計算としては合うが、以降の楔がズレるので実践が非常に困難。
        • だけど、やろうとすることはできる
        • あるいは実際には楔からズレてしまう16分5つ割りの4つ目を楔として置き換えれば、Slipのリフと同じ構造になる。そうしたアレンジは可能か。打ち込みなら可能で、実演なら難しいという領域だろうか?

細かいとこは検証もしてないんでどうでもいい(!)んですが、個人的には「記譜するから難しくなる」という点が重大。以前からうっすら思ってはいたけど、ここまで極端な実例がありませんでしたからねえ。
ややこしい、難しそうなのを採譜することで理解しようってのを、ここの日記でも何度かやってきたのだけど、ここに来て「採譜したらダメなのでは?」と考えられるケースが提示されたことに軽くショックを受けています。
こうした冒険がナンセンスかどうか考えるフェーズはとっくに過ぎてるのかもしれない。やりたい人はやる、鑑賞したい人は鑑賞するって土壌が、あるところにはあるってことですね(そこを目指すかどうかは別だけど、得られるものがあるならむざむざと見逃す手はない)。